こんばんは、Nkznです。
バイトが暇というか考えごとする時間がたっぷりあるのですよ。
なんか今回は以前からの疑問が解けて嬉しかったのでテンション高め。
こんばんは、Nkznです。
バイトが暇というか考えごとする時間がたっぷりあるのですよ。
なんか今回は以前からの疑問が解けて嬉しかったのでテンション高め。
文系学生の地位向上のために書いてみました。
や、ホント文系も頭いい奴というか、仕事できるやつすっげぇ多いもん。
そして理系学生のほうが人間関係とか実務的にはバカ多いもん。実例は挙げませんが。
理系学生のみなさん。普段は学問にしか使わないそのロジック、たまには人間関係を円滑にするように使ってみませんか。事態を上手く回すほうに使ってみませんか。それだけでも、のちのち鬱になる事態を回避できると思うんですよ。
まあ、勇気とか、やさしさとか、トラウマとか、色んなファクター考えたら全く意味のなくなるコラムでしたとさ。
P.S.
このテーマでちゃんとした文章を見つけたので、興味を持った方はどうぞ
http://www.st.rim.or.jp/~k-kazuma/TH/TH184.html
高校を卒業した人たちは分かるように、高等教育においては「理系は優秀、文系は落ちこぼれ」とも言える認識が存在している。これは受験戦争に至って特に顕著になる。
※自分の出身高校が数学マンセーだったからそう思うのかも知れないが。
さて、何にでも疑問を投げかける男、Nkznは疑問に思った。本当に、文系は勉強できない人間の集まりなのだろうか。
そもそも、勉強ができるということは、頭が良い=人間として能力が高いことに繋がるのだろうか。
まずは、既存の例を挙げることで自己の認識を確認したいと思う。
Q. 人間として能力が高いってどういうこと?
A. 色々ひっくるめて、効率の良い行動(仕事,処理)ができること。実務能力の高さ、と言い換えてもいい。
Q. 理系の人間は、効率の良い行動ができるの?
A. Non. 複雑な数式を解くことはできても、口下手で会話が成り立たないなんて理系人間はゴマンといる。もちろんそういう人は仕事なんてできない。
Q. 文系の人間は、効率の良い行動ができるの?
A. 割とイエス。でも口下手で会話が成り立たなかったりする人は少なくない。
Q. それじゃあ、理系か文系かによって、人間力は判断できない?
A. Yes. 原因は2択の外にある。
Q. それじゃあ、文理の向こう側にある、人間力の判断基準って、なに?
A. それは恐らく、「論理的な思考」ができるかどうかなんだ。
というわけで、今回は「論理的(Logical)な思考」という判断基準に論点を置いて、話を進めていきたいと思う。
そもそも、理系と文系は学習能力の高さで分けられているワケではない。学習分野の違いによって分けられているのだ。
数学、物理、化学などに興味がある、もしくは思考が上手く働く者は理系へ。
文学、語学、経済学などに興味がある、もしくは思考が上手く働く者は文系へ。
それだけの、学問上は本当にそれだけの違いなのである。
ならば、何が文系を下位の学問たらしめてしまっているのだろうか。
それには「科学的な思考」という言葉が深く関わってくる。
本来、科学的思考とは「事実を観察し、評価し、再考し、浮かび上がった新たな事実について再考すること」であり、数理的な思考とイコールではない。これは全ての学問に言えることであり、そしてこの科学的思考こそがほぼイコール論理的な思考なのである。
つまり、人間力が高い=論理的思考ができる≒科学的な思考ができるということになる。
しかし、我々の常識の中ではそれとは別の認識が起こっている。科学的思考=数理的な思考なのだ。
科学という言葉が、あまりにも数学や物理といったものを連想させすぎるのだ。数学者や化学者も確かに科学者だが、経済学者や考古学者も立派な科学者ではないか。
それにも関わらず、大衆が深層心理に抱く常識の中では、
論理的≒科学的≒数理的
であるはずの図式が、
論理的≒科学的≡数理的
になってしまっているのである。これこそが、文系の学問を貶める原因に他ならないと、自分は思っている。
前項において、理系・文系に貴賎がないことを確認できた。
それでは、本来の学問における能力差はどんなところで生まれるのか。論理的思考について論点を置いて考えてみたいと思う。
そういえば、論理的な思考についての定義をまだ済ませていなかった。
と言っても、自分は学者ではないので自分なりの定義をするしかない。もともとこの文章自体、自分の中にある常識・言葉だけで書いている妄想なのだから。
Nkznの提唱する論理的な思考の定義、それは
「次にすべき行動について考えること。次の次にすべき行動について考えること。」
である。
実務の中で、一個人は様々なファクター(要因)の中で次の行動(身体の動きだけではなく、発言なども含む)を決定しなければならない。リアルタイムで進行する事柄であっても、その思考は常に「現在」について考えているわけではないのだ。今の発言によって次に何が起こるのか。次の行動によって、次の次に何が起こるのか。事態を理解し、未来を予測し、展望を予想し、展開を構築し、誤りを修正し、状況に適応し、環境に対応するシミュレートの連鎖。いささか言葉遊びになってしまったが、「物事が上手く運ぶように、現状を利用して事態を動かせるよう行動するための思考」を行えばいいわけである。
実はこの言葉、自分が小さい頃から、親に言われ続けてきたことなのだ。最近の実務の中で、本当に大きな意味を持ってきているので、紹介も兼ねさせていただいた。
さて、この文章はNkznが書いているわけなので、Nkznの定義において話を進める。
前々項で話した通り、理系の人間だけが論理的な思考を持つわけではない。そもそも論理的な思考は人間すべてが持っているのだから文理というカテゴリの存在すらナンセンスだ。だが、今回は文理について考えているので、あえてこのカテゴリに沿っていこうと思う。
前置きが長くなったが、要は文系人間でも理系人間でも、優秀な人間は論理的な思考ができるのだ。単純に分野が異なるだけで、思考を重ねて論理を構築していくことに違いはない。分野、という言葉を出したが、これは学問の分野だけに留まらず、人間の思考領域と言い換えてもいい。
理系にとっての論理的思考の産物は、IT社会であり、バイオテクノロジーであり、技術大国ニッポンである。
文系にとっての論理的思考の産物は、上手く誤解を起こさないようまとめられた文章であり、スムーズに進行していく会話の流れであり、混乱無く運営されていく政治である。
思考領域、と先ほど言ったが、それこそが理系と文系の頭の使い方を分ける重要な考え方なのである。
世の中には「優秀で人間が出来ている」人や、「優秀だが人間としてはちょっと」な人などがいる。この辺の違いが何故生まれるのか、思考領域の話に絡めてカテゴリ分けしてみた。
こんなところだろうか。後半毒舌が入りまくったので内心ビクビクである。ちなみに自分はこれだけよく分からない文章を書いている&そこまで論理的ではないので、Gあたりだろうか。
世の中にいる「天才」と呼ばれる人種はABC。一芸特化の方が業界では強いので、BC≧A気味かも知れないが。
そして、多くの学生はほとんどD〜G。普通ですから。
あ、ちなみにグラフのど真ん中は何の取り柄もない凡人。凡人だけど劣化Aなので世渡りは悪くないレベル。
Hはドキュン。痛いニュース(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/)の登場人物に多いかも知れない。
さて、この辺を書いている時点で朝の5時になるが、オチが思いつかないので、そろそろ結論に移りたいと思う。
文系は本当に馬鹿なのか、という論点で始まった本文だが、実際のところ、実務上の話なのか、学問における話なのかなどで大きく結果が変わってくる。学問の話になれば、もちろん理系科目が苦手、という話になるだろう。しかし、実務上や特定の目的を持って思考を働かせたときは、理系文系関係なく、論理的な思考力を持つ人間が「頭のいい」人間なのだ。
このコラムはフィクションです。Nkznの妄想を書き連ねていたらなんかすごい容量になっただけで、大した中身はないと思われます。すっげぇヒマなときに読めば、ちょっと微妙な気分が味わえるかも知れません。